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第2章 15の夜 01

 海岸通りから一歩内陸へ向かえば、そこは樹海のような高級住宅街。――うっそうと茂る木々と古い塀に囲まれた旧家、南欧風の御殿、パステルカラーの改造車がある家、サーフボードがショップさながら外壁に立てかけられている家、赤い三角屋根の山小屋風の家、白亜のアート系の家……ありとあらゆる金のかけかたをした家々が、そこにはある。贅沢が通りに流れ出して、独特の香りを醸し出している。夏は男も女も老いも若きも半裸になって、あたりをうろつく。自転車のサイドにサーフボードを取り付けて、海へと向かう。

 日本全国を旅したわけではないが、ここほど豊かさを実感できる地域は、存在しえないと田丸は思っている。太陽と海と文化に恵まれたこの土地は、三百年以上前からの別荘地で、国を動かしてきた数々の要人が、そのしるしを残してきた。金、歴史、そして何よりも、東京とのパイプライン。東京駅から電車で五十分と、どうにか通える位置に所在しているため、多くの人々が通勤・通学や買い物などで日常的に東京と行き来し、そして逆に東京に住む人の多くが、海と太陽を求めてこの地を訪れる。つまりここは都会ではない都会であり、ありとあらゆるものが、ここにある。

 変な奴はたしかに多い。
 贅沢病患者が多い。

 所在する位置や、地形や、気候や、それまでの歴史や政治経済との関わりから言って、神様から祝福された土地というものは存在する。祝福されなかった土地や、見捨てられた土地とは、ぜんぜん違う。あきらかに違う。

 なのに、祝福された土地に生まれた人間は、そこに生まれたからという理由で、自分が、いかに恵まれているかを知らない。豊かさの本質とは、かけ離れたものばかりを求めて、頭を抱えて取り乱している。

 たとえば、生島白眉(いくしまはくび)という女。

 出会ったのは十四年前の秋の終わり。当時田丸は大学受験を控えつつも、新しく出会った女の子と夜の神社で待ち合わせていた。

 そして同じ夜、白眉は十五才で、その神社で首を吊って死のうとしていた。

第2章 15の夜 02

 芦刈神社(あしかりじんじゃ)という、里奈浜海岸から少し歩いた崖の上にある、恋愛のパワースポットとしては、そこそこ有名な小さな神社である。愛を誓い合った恋人たちがつけた南京錠が、社(やしろ)の裏の崖の転落防止フェンスで鈴なりになっていて、その向こうで夕日が海に落ちる。

 ちょっとした手違いで日が暮れてからの待ち合わせとなり、田丸がそこにたどり着いた時には、すでに狛犬(こまいぬ)が右と左でそびえ立って、蒼い月の光を浴びていた。芦刈神社の社は静謐(せいひつ)な黒で限りがなく、近づけば吸いこまれそうだった。田丸は社からなるべく離れた、境内(けいだい)と林との境のギリギリを歩いて、裏へ向かった。

 ――ふと、妙な感じがした。

 見てはならないという防衛本能が、うまく働かなかった。いつの間にか田丸は林の中を凝視していて、同年代の少女と見つめ合っていた。

 林を五メートルほど入ったところに、太い枝を四方に丸く広げる楡(にれ)の巨木がある。少女はその太い枝の田丸の身長より高いところにまたがって、田丸を見下ろしていた。

 月光が、少女のおでこから鼻のラインにかけて、つるりと滑り落ちていた。片方に寄せた長い黒髪が、白い首筋と細い肩のラインに陰影をつくっていた。細身の黒いパンツが、少女の長い脚にぴったりと絡みついて、その下にある少女の肉体を連想させた。少女の体内から泉のように湧き出る、なまめかしい何かが、辺りの空気を黒に染めていた。

 顔立ちも体つきも異常なほどに整った、いまだかつて見たことのない壮絶な美少女だった。これが生島白眉。
 幽霊にしては熱苦しい。人間にしては現実感がない。妖精のように可憐でありながら、殺人鬼に似た血生臭い何かが、白眉の黒目がちな切れ長の瞳の奥から、今にもあふれて、飛びかかってきそうになっていた。

 一瞬の出来事だった。

 白眉は、枝から飛び降りた。

 白眉の体が幹にぶつかり、鈍い音を立てた。

 その足は地面についていない。

 白眉は田丸の目の前で、首吊り自殺をはかった。

第2章 15の夜 03

 もちろん、助ける。

 即座に、田丸は白眉に走り寄るが、ナイフもハサミもない。首が絞まらないところまで、白眉を持ち上げるしかない。

 しかし、田丸が手をかけると、白眉の全身が、鰹(かつお)のようにわなないた。

 田丸はふっとばされて、林の土に転がった。

 余計なことしないでよ!――

 白眉の声が、田丸の頭蓋骨の中に入ってきて、わんわん響いていた。

 しかし、田丸は、再び白眉に走り寄り、白眉の腰骨の少し下を両腕で抱えて、強引に持ち上げる。白眉の首が絞まらない高さの枝に、白眉の尻を乗せようとする。白眉は抵抗する。白眉は体を激しく動かし、脚をばたつかせ、田丸をよろめかせる。田丸は耐える。白眉はゲンコツで田丸の頭を殴る。足の先で田丸の横腹を蹴る。田丸は耐える。白眉の攻撃と田丸の防御がせめぎ合った。

 白眉が飛び降りる刹那(せつな)に見せたのは、田丸に対する憎しみの目つきだった。

 白眉は自殺すると決めてここに来て、迷わず実行した。それを田丸が阻止している。白眉からすれば、田丸は邪魔者以外の何者でもなかった。

 しかしだからといって、目の前で失せようとしている命を放置できるか?

 白眉が美少女ではなく、酔っぱらいのおっさんであったとしても、当時十七才だった田丸であれば、同じようにしただろう。

 見殺しになんてできるか。力で押さえつけてやる。――

第2章 15の夜 04

 場を沈静化したのは、田丸の待ち合わせ相手の女の子だった。

 彼女は、五分とか十分とかいう、怒られない範囲で遅刻して、ここに到着していた。

 「携帯!」

 田丸が叫ぶと、彼女はあわてふためきながらも、携帯電話から通報した。

 観念した白眉は、急におとなしくなった。

 白眉は田丸に肩車されたまま、首に巻き付いた麻縄を自分で外して、地面に降り立った。

 田丸は安堵(あんど)の溜息をついた。ほどなく重力を感じた。白眉の体が、田丸にのしかかっていた。田丸はよろけて、乾いた落ち葉が幾重(いくえ)にも堆積する、柔らかな林の土で仰向(あおむ)けになった。

 「責任とってよ……」

 白眉は田丸の胸に顔をうずめて言った。白眉がしゃくりあげて顎(あご)を上下させるたびに、田丸の胸に鈍い痛みが走った。

 「責任とってよ、あなたが、あたしを引き止めたんだから、だから、あなたが、あたしを幸せにするの」

 夜露に濡れた強烈な土の香と混ざり合う、白眉のあたたかな肌のにおいは、無意識のうちに田丸の肉体の毛細血管をさざめかせてたのだけれど、田丸は微動だにしなかった。指一本動かなかった。

 田丸は、木の葉の隙間から月を見ていた。大きな半月だった。月の失った半分を、漆黒(しっこく)の天蓋(てんがい)の中に探し続けていた。

第2章 15の夜 05

 それから十四年が過ぎた。

 白眉は自分を治したいからという理由で医者となり、現在は里奈浜海岸に面した超一等地で、内科のクリニックを構えている。以前は、椰子(やし)の木が下からスポットライトを浴びる豪奢(ごうしゃ)五階建てのラブホテルだった場所だ。それが四年前に取り壊されて、地上一階地下一階の小さな建物になった。地上に見えているクリーム色の箱が里奈浜クリニック――白眉のクリニックで、地下はカフェ・メキシカーナという喫茶店。前庭部分が大きくえぐれた地下広場になっていて、カフェ・メキシカーナのテラス席とつながっている。

 見晴らしは、良くなった。――しかし普通に繁盛していた一等地のラブホテルを壊して、基礎からやり直して小さな建物にするのに、いったいいくらかかるのか。――ちなみに、白眉の親は知的な金持ちだが、そこまでの金持ちではない。男(スポンサー)がいるのだ。

 車から出ると、海に向かって風が強く吹きつけてくる。

 田丸は顔をそむけて、舞った砂をやり過ごす。――紺に染まった雲のいたるところが、溶岩さながらの赤で生々しく侵食されている。天頂に近い位置で、三日月が白く佇んでいる。カフェ・メキシカーナの地下広場の光が流れ出して、地上の暗闇を照らしている。里奈浜クリニックの駐車場から流線が浮かび上がり、鋭い光を放っている。――エメラルド・グリーンのアルファ・ロメオ。――白眉の車ではない。患者の車でもない。白眉の男、影山太郎(かげやまたろう)の車。

 待合室は無人だった。患者ゼロ、受付カウンターの中も無人。雲の中を連想するのは、水色の巨大な抽象画のせい。ロビーソファのレモンイエローとのコントラストが美しい。

 ――

 二分ほどして、看護師の制服を着た男が、診察室から出てきて受付カウンターに座った。

 「影山、話がある」

 「歓迎できませんね。せっかく姫とダーツ遊びをして、盛り上がっていたのに」

 と、影山は、後ろ手に隠し持っていたシルバーボディのシャフトを投げた。それはささやかな光線のように待合室を横切り、小さな音を立ててリノリウムの床に落ちた。