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第1章 風のせい 01

 風のせいよ、と母は言った。――この街には頭のおかしな人が多いの。風のせいよ。――

 風?
 風
 どうして風なの?
 そう決まっているから

 どうやら、たいした根拠は、ないようだった。母がこの街の何を批判したいのか、田丸修(たまるおさむ)には、さっぱりわからなった。たとえ頭がおかしくたって、人がいるだけマシだと思った。

 田丸がそれまで住んでいたのは、平家の落ち武者の隠れ里を起原とする山深い集落で、ほんの数件の古い家と廃墟が点在するだけの土地だった。冬は雪に埋もれ、夏は外壁すれすれまで押し寄せる草木の緑に埋もれ、色あせたアスファルトの道路を通る車といえば、農作業用の古びた軽トラで、住んでいるのは老人ばかりなので、軽トラを運転するのも老人で、あるものといえば山と農地と川と空気で、つまりそれ意外には何もなく、田丸の家以外に、子供がいる家もなかった。母は父と一緒に働いていたので、田丸は留守番の祖母といつも二人きりだった。

 そこは、落ち武者でもなんでもない普通の人間が生活していくには、不便きわまりない忘れ去られた土地で、少なくともここ数十年という期間でみると、住人は減る一方だった。父の子供時代には世帯数が四十ほどあり、集落の中に分校があり、一年生から六年生まで合わせて十人ほどの児童がいて、町営のバスも通っていたらしいが、田丸の時代には、分校もなければバスもない。一年生になった田丸は、母の運転する車で町の小学校に通い、帰りは古びたガードレールがえんえんと続くだけの一本道を、何時間もかけてゆるやかに上り続けて帰宅した。

 父の子供時代に、父と一緒に分校に通っていた人たちは、女であれば嫁に行って集落を出ていったし、男のほうも、いつの間にか先祖代々の農地を捨てて集落を出ていった。

 しかし父だけは、先祖代々の古民家にサッシを入れて住み続け、嫁をもらいうけ、嫁に出ていかれ、また新しい若い嫁をもらって、この土地にとどまり続けた。

 他に行く場所がなかったからだ。

第1章 風のせい 02

 父は(甲斐性)もないくせにルーティン・ワークのできない人で、お好み焼き屋や焼鳥屋を、興したり潰したりの繰り返しだった。集落から車で二十分ほど山を下ってみたところで、あるのは人口二万人弱の過疎化が進行する小さな町なので、そこで喫茶店やラーメン屋をつくってみたところで儲(もう)かるはずがない。なのに父は同じことを繰り返し、最期は飲酒運転でガードレールを乗り越えて、崖から落ちて死んだ。享年四十八才。田丸は七才、母はまだ三十一才だった。

 母は田丸を連れて実家に出戻ることとなった。同居していた祖母は、父方の叔母の家で引き取られることとなった。そうして集落から、また一つ世帯が消えた。

 あの集落は今もそこにあるのだろうか。
 それとも、もう山の緑に飲みこまれて、消えてしまっているのだろうか。
 夢では、たまに見るのだ。
 壁が黒光りして大黒柱が家の真ん中にある、先祖代々の古民家に、子供で何の力もない田丸が、今なお住み続けていて、何かしたいのに、したいことが何一つ見つからず、母を探して泣いている。
 悪夢だ。田丸はいまだにうなされる。
 七才までは悪夢の中。
 田丸にとって集落から出たことは、悪夢から覚めたことと同じ。
 この街に引っ越して来てからが田丸の現実。

第1章 風のせい 03

 たどりついたのは、東京から電車で一時間の庶民的な住宅街だった。母方の祖父母が新婚時代に中古で買った、トタン屋根の安普請な小さな家が、田丸の新しい家となった。漠然とした期待はひどく裏切られていた。近所には、田丸の家と同じくらいみすぼらしい家もあったけれど、だいたいは田丸の家より新しく、こぎれいだった。ただ、立地は良かった。家を出て、ほんのちょっとでも歩くと、小学校にたどり着いてしまうのが、田丸には不思議でならなかった。小学校は大きな鉄筋の建物で千人ほどの児童がそこに通っており、田丸と同じ小学二年生が、うようよと魚群のごとく走り回っていた。田丸はするりと中に吸いこまれて、あっという間に溶けこんだ。授業が終わったら、暗くなるまで友達と遊んだ。アイスがほしくなればコンビニに行った。

 祖父は近所の鉄工所でネジの金型を作っている無口な痩せた人で、死んだ父とは何から何まで正反対だった。祖母は近所のスーパーの裏方で総菜作りのパートをしている大人しい人で、母とは口論ばかりだったが、田丸に対しては優しかった。祖母は時々、田丸をデパートに連れていってくれた。当時の田丸からすれば、いまだかつてない、ものすごい規模のデパートで、しかもそれがJRの駅の北側だけでなく、南側にまであることに、田丸は興奮して(地団駄)をふんだ。

 ある日田丸は、家の裏を流れる河を、土手づたいに下ってみた。ずっと行くと海に出た。感動で足元がぐらついた。世界が変わった瞬間だった。

第1章 風のせい 04

 この街は、東京から五十キロメートルの位置にあって、南北に細長い。JRの線路が市の中央を東西に横切っていて、田丸の家はそこから少し北にあるのだが、方向を変えて南へ向かえば海に出る。街の南辺全域が海に面していて、名前がついているビーチだけでも、(赤松海岸)、里奈浜海岸(りなはまかいがん)、貝里ヶ浜(かいりがはま)、新見ヶ崎(にいみがさき)と四つあり、夏はどこも人で埋めつくされてしまう。

 田丸がたどり着いたのは里奈浜海岸で、十代後半から二十代前半の、きれいなお姉さんばかりが目についた。それまでの田丸は、海の家というと、裏にコイン・シャワーのある吹きさらしの小屋だと思っていたのだけれど、里奈浜海岸の海の家には壁と入口があって中は暗く、大音量のダンス・ミュージックにのって、小さな水着で要所だけ隠した男女が踊っているのだから、衝撃だった。その隣の海の家も、その隣の海の家もクラブ系で、普通の家族連れのための海の家は一軒か二軒しかなかった。

 車高が当時の田丸の肩までしかないのに、リムジンよりも細長い、蛍光ピンクの改造車が海岸通りを走っていた。仲間がいるみたいで、まったく同じ形のバッタ色の改造車も近くを走っていた。派手な改造バイクが集団で走っていた。マフラーが陽光を強烈に反射していた。同じ改造車や改造バイクを何度も見かけた。彼らはなぜ同じ道路を何往復もするのか、つまり、彼らは、ただ里奈浜海岸のそばを行ったり来たりするだけで、超ハッピーなようだった。しばらく歩くと、砂浜がコンクリートでせき止められて、白いヨットが並んでいた。来た道をふり返ると、椰子(やし)の木が立ち並び、彼方まで続いていた。

 ここは、楽園だと思った。

 楽園まで一人でチャリでたどりついてしまう自分が不思議だった。

 たいした出世だった。

第1章 風のせい 05

 「この街には、頭のおかしな人が多いの。風のせいよ」と、母は言う。

 「……風?」
 「風」
 「どうして風なの?」
 「そう決まっているから」
 「誰が決めたの?」
 「昔から決まっているの。言い伝えみたいなものよ。この街では、いったん決まったことは変わらないのよ」
 「誰もそんなこと言っていないよ」
 「八才の子供には難しいかもね」

 里奈浜海岸にたむろしていた人たちは、ただひたすらに、海! 太陽! 海! 太陽! それだけだった。

 田丸は、彼らのことを、頭がおかしいとは思っていない。

 ただ、贅沢だな、とは思っている。

 贅沢が生ぬるくあふれて、そこかしこで無防備なにおいを漂わせているのが、この街。心地よすぎて、何かを力いっぱい破壊してしまいたいような、激しい暴力衝動は必然として芽生えるのだけれど、それさえもゆるゆると太陽に溶けて、海に持ち去られてしまう。

 でも、それって、風のせいなのかな?

 母の次の結婚相手は、また別の辺鄙(へんぴ)な土地に住む、貧乏な年上の男だった。

 一緒に行くかと母は田丸に訊いたが、訊いておきながら、母は、あまり一緒に来てほしくない様子だった。
 それが悲しいのか、悲しくないのか、田丸には、もうわからなかった。田丸には、この街を離れる気など、さらさらなかったから。