カテゴリー別アーカイブ: 02 第2章

C規格の男 第2章 01

 俺のことを好きな女子が、クラスの中に三人はいると、実は虚構なのだが、とにかく思いこんでいた時代の鴨門真伸の精神は安定していた。バレンタインデーなんてうわさでしか聞いたことがなかったので、実際には存在しないと思っていた。見えていなかった。母親は毎年チョコレートをくれていたけれど、それよりは金をくれという感じだった。

 しかし開眼してみると、高橋のナップサックの中は、色とりどりのチョコレートの包みの中に、汗にまみれた体操服がうもれている感じだった。高橋は野球部の同級生。運動神経は抜群に良くて、一年生の時から二年生に混じって公式試合に出ていた。口数は少ないけれど、性格が良くて、鴨門真伸のことを見下したりもしなかった。ただ、おそれ多くて、鴨門真伸のほうが近づけない感じだった。

 遠足や文化祭といったイベントの日がくるたびに、高橋のそばには女子が走り寄る。高橋と一緒に写真を撮りたがる。別になんでもない普通の日の昼休みにだって、高橋の教室の前の廊下には、顔を赤らめた下級生の女子が集まってきて、きゃあきゃあ騒ぎながら高橋を見つめる。しかし、彼女たちは鴨門真伸のことなど見向きもしない。鴨門真伸は彼女たちの前を素通りしてトイレへ向かった。

 高橋ほどモテる男でなくても、中学三年生ともなると、けっこうな数のカップルができていた。鴨門真伸と同じような、運動神経が良いわけでもないのに、サッカー部になんて入って、結局のところ補欠で終わったような奴にだって、彼女がいたのだ。なのに鴨門真伸はあいかわらず、女から見向きもされないままだった。モテないと自覚してからの鴨門真伸は、どんなに笑っていても、心のどこかが常に不幸だった。

 あれが、覚悟が決まった瞬間だったのかもしれない。中学の卒業式の日、高橋は第二ボタンどころか、ありとあらゆるボタンを女子に奪われていた。しかし鴨門真伸のブレザーのボタンはきれいなままだったし、女子がまとわりついてくることも、一緒に写真を撮ってくれと女子に泣かれることもなかった。別れを惜しむ生徒たちが、うだうだと留まり続ける中学校の玄関前を、鴨門真伸は素通りして家へ向かった。特に誰かに声をかけられることもなく、あっという間に帰宅した。

 女なんていらない。一生独身でもいい。

 鴨門真伸は自分の部屋で膝を抱えた。

 なぜなら、女さえいなければ、鴨門真伸という男は、そうみじめでもないのだ。

 鴨門真伸の進学先は横浜H高。県下では常にベスト三に入る県立の名門校。他には、とりたてて人に誇れることはないけれど、勉強ができるというのは、この学歴社会を生き抜いていくための強力な武器だ。それが最初から与えられているのだから、鴨門真伸という人間は、一応は恵まれているのだ。

 だから、

 欲張らないでおこう。
 スポーツとか女とか、苦手な土俵で戦うのは止めよう。
 勝てる試合をし続けよう。

 そう決めたのだ。

 で、高校生になってからの鴨門真伸は、人前で身体能力を披露せねばならない場面からは、誰よりも早く逃げた。卑怯と呼ばれないための話術を駆使した。部活に入るつもりはなかったのだけれど、なりゆきで写真部におさまった。部員の半分以上が色白のオタクだったが、もうかまわなかった。

 コンタクトもやめて眼鏡に戻した。むっと立ちこめる思春期の男女の匂いから切り離されて、無機質で安全な場所にたどり着いた。文武両道のサッカー部のモテ男も、下駄箱の隅でくすくす笑い合うカップルも、ガラス一枚へだてた世界での出来事。俺には関係ない。

 モテる要素など一つもない。

 はずだった。

 なのに、なぜだか、相談と称してクラスの女子から電話がかかってきたり、男女数人のグループで遊びに行こうと誘われたり、といった事件が頻発するようになった。

 初めて告白されたのは高校一年生の終わりだった。鴨門真伸と同じく写真部の一年生で、いつも恥ずかしそうにしゃべるけれど、芯はしっかりした小柄な女の子だった。その頃の鴨門真伸は、パンツ一丁のマッチョが取っ組み合う場面ばかり撮っていたのだけれど、彼女は普通に、ささやかな日常の中から、おもしろい画面を探し出してくることに喜びを見いだしていた。

 彼女は、どうやら鴨門真伸をからかっているわけではなさそうだった。特に何をするというわけではないのだけれど、とにかく鴨門真伸と一緒にいたい。その気持ちが陽炎のように、彼女の背後から立ち昇っていた。

 彼女と鴨門真伸は、気が合うほうではあった。鴨門真伸のほうも、彼女のことを、少なくとも普通の子よりは絶対にかわいいとは思っていた。だから、――嬉しいはずなのだけれど、確かに、「好きです」と言われたその瞬間は、鴨門真伸も舞い上がっていたのだけれど、――家に帰って、ふと冷静になってみたら、鴨門真伸は彼女のことが、すごく嫌いになっていた。鴨門真伸は彼女のことを避けるようになった。

 次に告白されたのは高校二年生になってから。同じクラスになったことのない、一言も口をきいたことのない女の子だった。彼女のどの部分に対して、どのように興味を持てばいいのか、鴨門真伸にはわからなかった。彼女が鴨門真伸のことを、どんなに好きだったとしても、リアリティがなく、鴨門真伸にとっては、なんだか他人事だった。

 それなりに、嬉しくもあるのだ。けれど、いつも、ふと正気に戻った瞬間に、醒めてしまう。

 なぜなら、そう。――たしかに、苦手なものから逃げて、鴨門真伸の得意分野だけを女子に披露しておけば、鴨門真伸はもしかしたら、実際の鴨門真伸よりも、数段上の人間に見えるのかもしれなかった。

 人前で運動しなければ、鴨門真伸の運動神経が鈍いことはばれない。部活内で冷遇されている、みっともない鴨門真伸の姿をさらすこともない。

 陸上競技大会のクラス代表選手に選ばれそうになるくらいだから、もしかしたら鴨門真伸は、逆に運動神経が良いように見えていたのかもしれない。なんだかんだと理由をつけて、周囲を適当に笑わせながら、選手の座を辞退する鴨門真伸の姿はクールに見えていたのかもしれない。内心は必死だったのだけれど、そんなものは、見えない。

 見えないことは、存在しないことと同じ。
 見えないことは、存在しないことと同じ。
 見えないことは、存在しないことと同じ。

 今、ここにいる、最大限にプロデュースされた鴨門真伸。
 その鴨門真伸は、なぜだか、そこそこ女にモテた。

 その現実に、幻滅していた。
 その現実を、憎んでいた。
 分厚い雲の隙間から射す光によって、啓示のごとく照らし出されるのは、人間というものの薄っぺらい性癖。
 
 人はきわめて表面的に、他人を判断する。

 鴨門真伸に告白してきた三人目の女子が、酒巻多江だった。

 なんだってできた酒巻多江は、鴨門真伸と同じく横浜H高に進学していた。同級生の女子が大人びてきた分、酒巻多江の、四方八方に撒き散らすがごとくの強烈な色香は息をひそめて、目立たなくなってきていたけれど、あいかわらず、きれいではあった。上級生も下級生も酒巻多江を知っていた。

 手ひどくふられはしたものの、酒巻多江に対する鴨門真伸の気持ちは結局のところ本物で、鴨門真伸は酒巻多江を見ると、あいかわらず、何やら痛いような気分になった。

 しかし、もう傷つきたくないので、鴨門真伸から声なんてかけないし、目も合わせない。帰る方向が同じなので、JR横浜駅のホームで酒巻多江の姿を見かけることは、たびたびあったけれど、そういう場合は、必ず鴨門真伸のほうが、酒巻多江からなるべく遠い車両を選んで電車に乗った。それが酒巻多江の望みだと鴨門真伸は思っていた。

 なのだけれど、――

 高校二年生のある日。梅雨入り間際の、よく晴れた放課後のことだった。鴨門真伸は校門を出て、同じ高校の生徒が数珠連なりになっている、横浜駅へ向かう近道ではなく、あきらかに遠回りの、車通りが多くて歩道の狭いいやな下り坂の道を選んで、一人でふらふらと歩いていた。それがその頃の鴨門真伸の習慣だった。後ろを酒巻多江も歩いていたようだが、辺りが車のエンジン音だらけだったせいか、鴨門真伸は全然気づかなかった。横須賀線に乗ってからも、鴨門真伸は音楽を聞きながら窓の外を見ていたので気づかなかった。大船駅で電車を降りて、バス停へ向かう階段を下りている時、後ろから声をかけられて、――それが酒巻多江だと気づいた瞬間は、現実の世界から、ぽーん、と妙な場所へふっとばされた感じだった。

「無視しているのかと思ったら、ほんとに気づいていなかった」

 酒巻多江は笑っていた。

 鴨門真伸を見て、笑っていた。

 反射的に、鴨門真伸は酒巻多江から顔をそむけて、階段をかけ降りた。

「待ってよ」

 鴨門真伸は待たなかった。帰巣本能の一種だろう。鴨門真伸の足はバス停へ向かって一直線だった。とにかく家に帰ろうとしていた。

「待ってったら! あたし、おととい手術したばっかりなのに!」

 足がぴたりと止まり、糸で引っ張られるようにして、ふり向いた。酒巻多江は自分の下腹に手を当てていた。

「何の手術だと思う?」

 酒巻多江は答えを言わないまま、鴨門真伸の前を歩き始めた。

 その足取りはしっかりしていたけれど、酒巻多江の細い腰や肩が鴨門真伸を不安にさせた。

「ファミレスとかに、入る? 話があるんだったら、聞くけど」

 これだけ言うのに、二十分くらいかかった。駅前の喧噪は遠く過ぎ去ってしまっていた。目に映るのは、ひしめき合う家々と、マンションと、新緑の山ばかりだった。

「ああ、死にたい。あたしなんて、死んでしまえばいいのよ」

 酒巻多江は前を見たまま、ぶつぶつと繰り返した。

 酒巻多江は線路を渡り、車通りのほとんどない細い道を選んで、歩き続けた。そのうち、丘の上の住宅街を、上へ上へと向かっていった。しまいには、山の中に入っていった。ローファーで、けもの道を歩き続けた。

 鴨門真伸も本格的に、自分が今どこにいるのか、わからなくなってきた。けもの道が続くばかりになった。本気で山ん中だ。左右には草木が生い茂っている。頭上から木の枝が覆いかぶさっていて、土の香が立ちこめている。

「ねえ!」

 唐突に、酒巻多江はヒステリックな声を出した。息を詰めたような静寂が切り裂かれる。

「中学の時、あたしを幸せにできるのは僕しかいない、って手紙くれたよねえ?」

 鴨門真伸は答えなかった。何をどう言えばいいのかわからなかった。だって、その手紙は、酒巻多江のその白い手によって、ビリリー、ビリリー、と引き裂かれて、湿生花園に散ったのだから。

「あたしが、こんなふうになっても、それでも、あたしを受け入れて、あたしを幸せにできるって思う?」

 堕胎手術。

「相手の男って、どんな奴?」

 ぽろりと口からついて出た冷たい声に、鴨門真伸のほうが、一瞬だけひるんだ。しかし、思えば鴨門真伸が、酒巻多江に対して優しくしてあげなければならない理由は、どこにもないのだ。

「……去年、教育実習に来ていた東大の四年生、覚えている? あの、代数幾何を教えていた、色白で、目も鼻も口も大きい悪魔みたいな顔をしていて、性格が悪そうな」

 酒巻多江は案外素直に答えた。要は、言いたかったみたいだ。

「――魔が差したのよ。先生質問です、って寄って行くと、意外と、女慣れしている感じで。意外と、女にモテそうな感じで」

「――好きだったの?」

 酒巻多江は鴨門真伸に背中を向けたまま、怒鳴った。

「だから、魔が差した、って言ったでしょお?」

 野鳥の群れが羽音とともに飛び立っていった。

 酒巻多江はけもの道の真ん中でうずくまって、しくしくと泣いた。

「――泣くんだったら、どうでもいい相手と、そんなこと、しなければいいのに」

 鴨門真伸も酒巻多江から少し離れて、うずくまっていた。

 早く家に帰りたいように思ったし、このまま時が止まってしまっても、いいようにも思った。

 梅雨入り間際の太陽は、まだまだ高くて、酒巻多江のしめやかな泣き声が、木漏れ日に溶けていくようだった。

以来、酒巻多江は、たびたび鴨門真伸を誘うようになった。校門を出て鴨門真伸の後ろを歩き、別々に電車に乗り、大船駅で降りたところで、鴨門真伸に声をかけてくるのだ。それはファミレスで何か甘いものを食べようという提案だったり、モノレールで江ノ島まで出てしまおうという提案だったりしたこともあったけれど、たいていは、酒巻多江が鴨門真伸の隣を、ただ歩いていて、うだうだとそこに留まっているだけの時間だった。いつの間にか、鴨門真伸たちが通った中学の隣の中学に出て、校庭で部活にいそしむ中学生を眺めていたり、広大な敷地を持つM菱電機の研究所の周りを、特に意味もなく何度も周回していたり。

 酒巻多江は饒舌だったが、鴨門真伸はほとんどしゃべっていなかった。少なくとも、鴨門真伸は酒巻多江に対して優しくしているつもりは、さらさらなかった。酒巻多江の誘いを断れないのだから、つまり、いまだに酒巻多江のことが心のどこかでは好きなのだろうということは自覚していたが、同時に酒巻多江を憎んでもいた。

 酒巻多江は鴨門真伸をふった。酒巻多江は処女ではない。酒巻多江は子供を堕ろした。なのに、今さら、

「あたしを理解してくれる唯一の人」

 などと言って、鴨門真伸にすり寄ってくる酒巻多江を、どう扱っていいのかが、わからなかった。

「だってね、たとえば、清潔そうで、勉強ができて、ピアノもできて、大切にされて育った雰囲気で、って、男はそういうの好きでしょ? ぜんぜんたいした男じゃないくせに、この俺様が手に入れるのにふさわしい女であるか否かを考えるの。女を選別するの。寄って行くか、無視するか決めるの。

 だから、男の子なんて、あたしには、たくさん寄ってくるけれど、あたしは、そんなはりぼてみたいな男の子のことを好きになれないし、男の子のほうだって、あたしのことなんて、本当は好きでもなんでもないの。だって、あたしの雰囲気にだまされているだけなんだもの。本当のあたしがどんな人間かなんて、誰もわかっていないんだもの」――

 などと、酒巻多江は高飛車な言い草だったが、鴨門真伸に言わせれば、酒巻多江という人は、単に、最初から大人なのだ。本人の自覚もなく、本人が選択したという意識もなく、生まれながらに与えられた所与の条件として、酒巻多江は大人だった。自分がどのようにふるまえば親から好かれ、男子からちやほやされ、女子からも一目置かれて、仲間として受け入れてもらえるか、わかっていた。しかも、なまじ器用なために、反射的に、それを忠実に実行してしまう。酒巻多江本人の意思とは無関係に、酒巻多江の本当の姿とは異なる、周囲の人間が酒巻多江に期待する酒巻多江を演じてしまうのだ。

 つまり、酒巻多江は、実はけっこう、ぶざまな人だ。酒巻多江には自覚があったし、鴨門真伸もわかっていた。

 酒巻多江の言う通りだ。

 酒巻多江と同じ教室で過ごした中学一年生の時から、鴨門真伸は酒巻多江を理解していた。

 でも、それをはねのけたのは、酒巻多江自身だ。

 結局のところ、鴨門真伸には酒巻多江を受け入れることができなかった。恋人としてつきあってほしいと告白されてからは、意識して酒巻多江を避けた。避けて、避けて、避けまくった。

 復讐じみているかもしれない。でもあの時の鴨門真伸には、どうしても、酒巻多江に向かって、腕を広げることができなかった。

C規格の男 第2章 02

 出水一平こと鴨門真伸は入社二日目から寝坊して、一時間遅れで百瀬興業の経理の席についた。とたんに黒木課長が鴨門真伸にすり寄ってきた。いきなり説教? 鴨門真伸はいやな顔で立ち上がる。まだ十時前なのに、常務室のドアが開け放されている。しかし、黒木課長はそっちへ向かわず、なぜだか社長室へ鴨門真伸を誘導した。中には百瀬社長と、くたびれた背広を着た筋肉隆々のおっさんがいた。

「よう。おはよう」

 百瀬社長は鴨門真伸の背中をたたいて出ていった。見知らぬおっさんと鴨門真伸が社長室に二人きりにされた。

「出水一平さん?」

 無骨に笑いながら、おっさんは名刺をテーブルの上に置いた。神奈川県警刑事部捜査第一課の名刺だった。

 刑事である。

 事態が飲みこめなくて、鴨門真伸はただひたすら名刺をのぞきこんだ。百瀬興業を出たのは今朝四時だった。二時間しか寝ていないのだ。頭の回転は鈍い。 

 昨日は、入社の手続きに挨拶にと何かと忙しく、そのうえ百瀬社長が急かすものだから、即行で銀行へ行き、ここ半年ほど未記入のままだった普通預金通帳六口座分の記帳を済ませて、それから法務局へ行き百瀬興業とその関係会社の登記簿を手に入れ、などとしているうちにビジネス・アワーが過ぎ去ってしまった。

 普通預金も当座預金も、主要口座の数字は、やはり億単位でずれていた。しかも実際残高のほうが少ない。まずは支払手形の決済スケジュールと借入金の返済スケジュールが心配になったのだが、資金繰り表は半年前から更新されていない。しょうがないから、先月、先々月の当座照合表を、定時きっかりに帰っていった原田課長の机の中から探し出してきて、入出金の趨勢を見て、少なくともあと一ヶ月は資金ショートの可能性はないな、との結論に至る。百瀬興業の経営状況とか、関係する人物一覧とか、その勢力図とか、色々と固めていきたいのだが、なかなか本題に入れない。原田課長の無能っぷりは犯罪的ですらある。放置するどころか仲良く昼飯に連れていっている道下海は同罪以上だ。その道下海が、まがりなりにもパチンコホール三店舗の梶を取ってきた百瀬社長を見下していて、ろくに口もきかない。用があれば黒木課長が伝書鳩のように、常務室と社長室を行き来するのだ。――ロイという権力者サイドについているというだけの理由で、自分自身は小市民の一人にすぎない、道下海みたいな奴までもが、自分の力を過信する。そしてそれが周囲に受け入れられる。まあ特に珍しいことでもない。よくある話だ。これが社会の縮図だ。大企業の従業員は、ただそこの従業員だからというだけの理由で、中小企業を蔑む。大国の国民は、ただそこの国民だからというだけの理由で、小国を蔑む。下っ端の従業員や、ありふれた力なき民は、これまでの歴史や伝統や強いリーダーや経済的な幸運に、ただぶらさがっているだけなのに、そうは思わない。俺はあいつらより偉いと思うのだ。

 腐ってもしょうがない。鴨門真伸はとりあえず業務に没頭していて、――ふと気づけば、誰もいなかった。システム担当の若い男が「もう表玄関は鍵がかかっているから、裏口から出て下さいね」と、人見知りの激しそうな顔つきで鴨門真伸に声をかけて去っていった理由を、鴨門真伸はその時初めて悟った。これが二十時半くらいのこと。それから、パソコンのデジタル時計が3:52になるまで、鴨門真伸は一人だったので、やりたい放題会社の中を動き回っていた。履歴書の入った人事用の金庫の鍵は百瀬社長から預っていたけれど、常務室の鍵や黒木課長の机の鍵といったものは見当たらなかったので、つきあいのある鍵師を呼んで開けてもらった。道下海の机の中から、真っ赤なガーターベルトや生地の透けた下着が出てきたのには、少なからずショックを受けたが、見なかったことにした。すぐ頭を切り替えて仕事に戻った。

 ――刑事が来たのは、この件だろうか。

 しかし、刑事はにやけた顔つきで言った。

「伊藤多江って、いい女だな」

 鴨門真伸は、ちょっとイラっとした。

「それが、どうしたんですか?」

「浴衣とか似合いそうだなあ。湯上がりとか色っぽそうだなあ。たまんねーなぁ」刑事が、分厚い唇を曲げて舌なめずりする。

 だんだん、腹が立ってきた。

「で、何?」

 しかし、鴨門真伸のその感情的な反応を見つめる、刑事の目の奥が、あまりにも冷静なので、鴨門真伸は首を左右にふった。反省した。まずは現状を把握せねばならない。

「出水一平さん。――昨日転職してきたばっかりなんだってな。で、どんな気分? 職場に、あんな美人がいるのって。警察署で働いているのなんて、ブスで気の強いのばっかりだからな。よくわかんないんだよ」刑事は軽口を続ける。

「本題に入ってください。これでも忙しいんです」

「おい、おい、はっきり言うなぁ。普通はみんな、俺に合わせて色々としゃべってくれるぞ」

 刑事は首をすくめて笑った。でもその目の奥は、やはりちっとも笑っていない。ふっと白んだ空気を遮るようにして、刑事がテーブルの上に写真を置く。

「この男に見覚えはあるか」

 四十代前半の育ちの良さそうな男。若干小太り。優しそうだが執念深そう。見覚えはない。鴨門真伸は首を横にふる。

「昨日の午後、何していた?」

「この人、誰ですか?」

 刑事はしばし逡巡してから答えた。

「伊藤多江の旦那だよ。昨日殺された」

 ――?

C規格の男 第2章 03

「伊藤多江が、今どこに住んでいるか、知っているか?」

 知っている。横浜みなとみらい地区の高層マンションの上層階。ベイサイド・コート・タワーの三九〇二号室。酒巻多江は週に一度はそこに道下海をつれこんでいるから、その時その場所で酒巻多江を殺して、道下海が殺したように見せかけてくれなどという、無茶なことを百瀬社長は鴨門真伸に要求していた。

 そんなことが言えるはずもない。

「知らないです」

「――伊藤多江の携帯電話の番号は知っているか?」

「知らないです」

 刑事が鴨門真伸を見つめたままなので、鴨門真伸はしぶしぶ嘘をつけ加えた。

「伊藤さんは美人だけれど、俺の好みではないです。たとえ好みだとしても、会社の人ですから。いきなり携帯番号なんて聞けません」

「どうして、そうやって簡単に、ぺらぺらと嘘をつくかなあ」

 流暢な作り笑いを引っこめた、すごみのある本来の顔つきで、筋肉隆々のおっさん刑事は鴨門真伸を見ていた。

「高校、同じだろ?」

 ぐう、とそしゃくの奥が詰まるのを感じた。刑事という人種は、その人物の背景を、前もって調べてから聞きこみにくると聞いたことがある。

 しかし、

「知らないです」で、通してしまうしかない。「どこまで刑事さんが調べたのか知らないですけど、俺は一年浪人して横浜H高に入って、でも出席日数が足りなくて、二回留年して高校一年生のまま退学になった男ですから、校内のことは、ほとんど覚えていません。伊藤さんは美人だけれど、はっきり言って俺の好みじゃないですから。むこうは俺のことを覚えていたかもしれないけれど、俺のほうはぜんぜんです」

 実際には、出水一平――鴨門真伸ではない本物の出水一平と酒巻多江には、つきあっていた時期があったので、そこまで刑事が調べ上げていたらアウトである。でも、そんな記録は、当時の同級生の頭の中にしかない。

「というか、警察は、伊藤さんを探しているということですか?」

 酒巻多江の旦那が死んだ。
 警察は、酒巻多江を探している。
 それって、どういうこと?

 しばし、軽くにらみ合っていた。
 刑事は答えなかった。

 代わりに、昨日の午後から夕方にかけての、鴨門真伸のアリバイを説明させられた。どのような内容の仕事を何時頃から何時頃までしていたかとか、何の目的でどこへ何時頃から何時頃まで外出していたかとか。――不思議なことに、刑事が経理業務に通じているはずもないのに、それなりに理解されている感じがした。少なくとも、原田課長に報告する時に感じる無力感というか、無駄なことをしている空気はなかった。

 話しているうちに、昨日の十七時頃、日影あき菜に特選ステーキ丼を買わされたことを思い出した。銀行と法務局を行脚した疲れが、席に戻ったとたんに襲ってきたので、鴨門真伸は再び立ち上がり、コンビニへ向かった。カップのカフェオレを選んで、レジの台の上に乗せた。すると、特選ステーキ丼と二リットルサイズの緑茶が横から出てきて、鴨門真伸のカフェオレにそえられたのだ。顔を向けると日影あき菜が、赤とシルバーのツートンカラーの眼鏡を光らせていた。どうやら鴨門真伸のあとをつけて会社を抜け出して来たようだった。

「お会計は?」レジ係の店員も、なんだか妙な空気は察したようだった。

「一緒で」と日影あき菜は答えた。「でも袋は別々で」

「……君、俺のことなめているだろ?」

 日影あき菜は涼しい顔をして答えなかった。

 つまり、日影あき菜も残業していくということなのだろう。そのための腹ごしらえなのだろう。――鴨門真伸はこのようにして自分の気持ちをなだめた。しかし、日影あき菜は、さっさと定時で帰っていった。鴨門真伸が買ってあげた特選ステーキ丼と二リットルサイズの緑茶が入ったコンビニの袋を腕から提げて。

 奴は家に持って帰って食うつもりなのだ!

 ほう、と刑事は熱心に聞き入っていた。なんだか、親に告げ口している小学生の気分になっていた。

 気が緩んでいたのだろう。

「ところで、出水一平さん、あんた高校生の時、人を殺しているね?」

 刑事に言われても、とっさには答えられなかった。

「……ああ、はい、そうですね」

「他人事だな」

「そんなつもりはないです」

 でも、本当に他人事だった。

 鴨門真伸は社長室を出た。

 刑事は二人組で、もう一人は常務室の中を歩き回って、昨夜鴨門真伸がしていたみたいに、道下海の机の引き出しを調べていた。

「そりゃあ、家には持って帰れないからな」しばらくして、刑事二人が笑い合っている声が、常務室の中から聞こえてきた。道下海が机の引き出しに隠し持っていた、真っ赤なガーターベルトのことだと思う。

 そんなの酒巻多江がつけるのだろうか。想像できないのは、想像したくないからだと思う。鴨門真伸は頭を抱えた。

 今日、道下海は出社していない。酒巻多江の机も空いたままだ。

C規格の男 第2章 04 

 夜。――

 百瀬社長に連れ出された。

「ニュース見たか? 昨日の午後五時頃、横浜市西区みなとみらいのマンションで男性が死んでいるのを、同じマンションに住む男性の義姉が発見して110番通報した。男性はイトー製薬取締役開発本部長伊藤知輝三十八歳。警察は伊藤さんの妻と、妻の知人男性が事情を知っているものとみて行方を追っている。――伊藤多江と道下海のことだよ」

 百瀬社長は黒塗りのベンツを自分で運転している。ベンツの足元には、社長室に敷いてあるのに似た、毛足の長い真っ赤な絨毯が敷き詰められている。
「ニュースの表現の仕方って、じっくり見てみたら、面白いな。男が死んで、警察は、その妻と知人男性の行方を追っている。――何が知人男性だよ。愛人に決まってるじゃねーかと視聴者は思う。妻と愛人が共謀して妻の夫を殺したに決まっているだろと視聴者は思う。でも、そこまでは言わない。寸止めしておいて、視聴者に結論を言わせるんだ。やらしいなあ」

 百瀬社長は上機嫌である。

 でも鴨門真伸には、何をどう言えばいいのかが、わからない。

「で、どうやったんだ? 本当は鴨門先生が仕組んだことなんだろ?」

「……どうやって?」

 テンションの低い声で鴨門真伸は答えた。

「だからあ、……まあ、鴨門先生には伊藤多江が殺せないとしても、旦那のほうなら殺れるだろ?」

「……だから、どうやって?」完全にタメ口なのだけれど、百瀬社長のほうも気にしていない。

「昨日の午後、出かけていたよな?」

「十七時には戻ってました」

「会社とみなとみらいなんて、車だったら五分とかからない」

「銀行と法務局に確認すれば、俺のアリバイは証明されます」

「殺し屋でも雇ったのか? 俺の渡した一千万円から、百万円を抜いて」

「百万円で殺しなんて、わりに合わないにもほどがある。俺の知り合いに、そんな奇特な奴はいません」言い切った後で、ふっと霜が降りたみたいに、車の空気が冷たくなった。

 出水一平――あいつならやる。

「百瀬社長は、出水一平とは、どういう知り合いなんですか?」

「出水一平。――って、どの出水一平? 俺にとっての出水一平は、鴨門先生が妙な仕事を引き受ける時に、おきれいな自分の本名を隠しておくための、かくれみのの偽名でしかないんだけれど」

 静かな車内に響いたのは、鴨門真伸の舌打ちだった。

 名前がないのは、不便なものだ。現在のあいつは、法律上は完全な名なしなのだけれど、鴨門真伸はいつの間にか、あいつをかつての名前で呼んでいた。出水一平。――四年前までは、それがあいつの名前だった。

 百瀬社長は事情を察したようだ。

「つまり、鴨門先生が出水一平を名乗り、本物の出水一平のほうが鴨門真伸と名乗っているということか」と、しぶい顔をした。「あんたら、まぎらわしいな」

「あいつに名前はありません」――俺は鴨門真伸であり、出水一平でもあるけれど、あいつはただの名なしです。――つけ加えようとしてやめた。

「……百瀬社長は、あいつとは、どういう知り合いなんですか?」

「そんな難しい話じゃないよ。以前うちで働いていたんだよ」

 本物の出水一平――というか、親から出水一平と名付けられて育ってきた男は、三年ほど前にスタッフ募集の広告を見て百瀬興業にやってきた。運動神経のかたまりのようなマッチョの大男だ。光り輝く才能を腐らせて、社会の底辺でこそ泥のように生きる男だ。出水一平は桜木町店の採用になって、ごく普通にホール・スタッフとして働いていた。

 問題が発生したのは半年ほど経った頃。桜木町店の換金所に強盗が入った。フルフェイスのヘルメットをかぶった二人組の男が、換金所の番をしていた女性従業員を刃物で脅して中に押し入り、金を奪うという、ものすごくずさんな犯行で、犯人は、裏方に控えていた腕っ節の強い男に、あっという間に捕まえられて、手足を縛られて殴る蹴るの暴行を受けた上で、信州の川辺に放置されたのだが、――ふと気づくと、いつの間にか、犯人から取り返したはずの金が消えていた。

 このようにして出水一平は、たった五十万円程度の金とともに消えた。

 鴨門真伸には、さっぱり理解できない。

 しかし、百瀬社長によると、まあそういうこともあるのだそうだ。でもだからといって放置しておくと、他の従業員に対して示しがつかないので、百瀬社長は出水一平を探した。出水一平が履歴書に書いていた住所はでたらめだったが、携帯電話の番号の名義が女の名前だったことから、出水一平が女に買わせた携帯電話を使っていたことが推測され、わりとあっさりと出水一平に行きついた。百瀬社長は女の家から出水一平を引っぱり出して、拘束して、たたきのめした。金は戻ってこなかったが、メンツは守った。

 ――で、ここからが、また鴨門真伸には理解できないところなのだが、その後も出水一平は百瀬社長を訪ねてくる。忘れた頃に、出水一平が百瀬社長に金をせびりにくる。百瀬社長のほうも、なぜだか五千円札一枚とか、一万円札一枚とかを、財布から取り出して出水一平に渡してしまう。子供の小遣いだ。でもあまりにも出水一平がうれしそうなので、ついやってしまう。

 そのうち百瀬社長は、小田切桃子殺しを出水一平に依頼することを思いついた。出水一平ならば金のために人を殺す。良心の呵責もなく、きっちりやり遂げて、また金がなくなった頃に百瀬社長のところにやってくる。その様子がありありと頭に浮かんだ。

 案の定、出水一平は、おもしろがっているとしか思えない無邪気さで、小田切桃子殺しを引き受けた。しかし、一週間ほどして再び百瀬社長を訪ねてきた出水一平は言った。

「小田切桃子はまずいよ。何者かに殺されたら百瀬社長が疑われる。どんなアリバイを作ったって、百瀬社長が別の奴にやらせたんだと、誰もが思う。バレバレすぎるよ。だからむしろ伊藤多江が殺されたほうがいいんじゃないか? 道下海が伊藤多江を殺したことにするんだ。そうなると、小田切桃子の会社みたいな大きなところは手を引く」

 百瀬社長は、ただ一言この女を殺せと出水一平に言っただけなのに、出水一平はどのような手段を用いて、百瀬興業が今まさに直面している苦境まで正確に調べ上げてきたのだろうと、驚かずにはいられなかった。繊細にして緻密。なのにどこかで何かが大きく狂っている。それが出水一平。

「で、そういう、会社の中での痴情のもつれを扱うんなら、俺、ぴったりな奴を知っている。看板は公認会計士だけれど、金さえもらえれば赤ん坊でも殺す奴だ。だから俺のほうは、今回は紹介料ってことで、五十万円だけでいいよ」

 そのようにして百瀬社長は、鴨門会計事務所を訪ねてくるに至った。鴨門真伸は、はらわたが煮えくり返る思いで百瀬社長の話を聞いた。

 百瀬社長の上機嫌は続く。

「なのにさ、実際に殺されたのは伊藤多江の旦那のほうだった。――でも、まあ、悪くはない。むしろ最高だ。勝手に潰し合ってくれた。Slyvanがうちの女性従業員を殺そうが、女性従業員の旦那のほうを殺そうが、同じことだ。世の中いったい何が転がっているか、わかんないものだな。こんなことなら、鴨門先生に仕事を頼むの、もう少し後にすればよかった」と、百瀬社長は野趣あふれる顔をおどけて見せる。

「俺は即日で撤収でかまいません。まだ何もしていないから、金も最初に俺が言っていた百万円だけでいいです。残りの九百万円は、明日にでも返金可です」

「おい、冗談だよ」百瀬社長がハンドルから右手を離して、鴨門真伸の座っている助手席の背もたれを、子供のようにゆする。

「まだ道下海が伊藤多江の旦那を殺しただけだ。広告代理店との契約は残っているし、ロイとアレックだけじゃなくて、清子までもが百瀬興業の取締役の座についたままだ。あいつらを、全部まとめて追い払うまでは、俺は鴨門先生のことは手放さない。俺の大切なパートナーだ」

 鴨門真伸は小さく溜息をついた。実は本気で撤収したかった。酒巻多江のことも出水一平のことも、何も見聞きしなかったことにしたい。

「今日、ロイと三ヶ月ぶりで口をきいたよ。Slyvanにも警察が行ったらしくて、ロイがあわてふためいて俺に電話してきたんだ。Slyvanの名前がテレビに出るのか? ってさ。ロイっていうのは、妻と愛人とは堂々と引き合わせているくせに、どうしてそういう評判だけは、やたらと気にするんだろうな。まあ、しょせん、数字だけ見てきた奴の発想だよ。人を使うことに関しては、まるっきりのしろうとだ。――それでも道下海よりはマシだけどな。あいつが一番最悪。どさくさにまぎれてうちの会社の金で料亭に行くわ野球観戦に行くわ京都に行くわビーチに行くわ、たった四人しかいない女子社員のうちの、マシな二人を次々と愛人にするわ。――ロイの金に群がっているだけの小市民のくせに。虎の威を借る狐とは、まさにあいつのことだよ。天罰だな!」

「――結局、犯人は道下海なんですかね」

「あるいは、伊藤多江。俺としては道下海であってほしいけどな。どっちだって同じだけどな。どうせ、痴情のもつれでからまりあって、何かの力加減で旦那が死んでしまったってことなんだろうから」

 そう。――自然に考えればそういうことだった。

C規格の男 第2章 05

 百瀬社長に連れていかれたのは、関内の親不孝通りにある、赤いすりガラスと黒い格子戸の薄暗い店だった。湿ったエロスが建物全体から、陽炎のように立ち昇っていた。

「……なぜ、そうなる?」

「俺の感謝の気持ちだ。取っておけ」百瀬社長は店の二階の窓を見上げて、したり顔で笑っている。

「俺、まだ何もしていないですよね?」

「でも、きっと鴨門先生のおかげなんだよ」

「何が?」

「ま、いいから。きっと何かがどこかでつながっているんだよ」

 鴨門真伸は出迎えた店の主人に引き渡されて、二階へ案内された。

 三畳ほどの畳の部屋。赤い壁。赤い柱。濃い桃色のぼんぼりが天井から垂れ下がる、どことなくエキゾチックな部屋の真ん中で、襦袢姿の若い女が、脚をくずして座っていた。襦袢の前が大きくはだけていて、鋭く尖った鎖骨から、胸の谷間の下の方まで、あらわになっている。顔が小さくて、首も腰も細いのに、胸の肉だけは、たっぷりとあり余っていて、乳房が真ん中から少し離れて、だらしなく垂れている。――

 百瀬社長の感謝の気持ちは、――天女のようにきれいな女で、確かに、なんだかよくわからないが、すごい感謝されている感じはした。

 案外あっさりと、その気になった。

 女を抱き寄せると、柔らかな質感が腕に転がりこんできた。
 
 お前なんて 体だけだ

 女がびっくりした顔で鴨門真伸を見上げる。

「知らないだろ? 昔そういう歌があったんだ」

「――誰の歌?」

「伝説のロックバンドなんだけれど」嘘だけれど。鴨門真伸は銀縁眼鏡を外して畳の上に置いた。
 
 お前なんて 体だけだ
 ゴムがなければ できないけれど

 鴨門真伸はそれらしく節をつけて歌う。

「最悪ですね」

 女は、見た目より精神年齢が高い感じの笑みをくれた。たんに呆れていたのかもしれない。

 お前なんて 体だけだ
 ゴムがなければ できないけれど

 お前なんて 体だけだ
 ゴムがなければ できないけれど

 お前なんて 体だけだ
 ゴムがなければ できないけれど

 狭い畳敷きの部屋の薄い布団に仰向けになる、一仕事終えた売春婦と、元の自分に戻った客。飾り天井からぶらさがる桃色のぼんぼりを、鴨門真伸は眺めている。酒巻多江のことを考えていた。

 俺とは関係のないことなのだ。
 
 酒巻多江が道下海と浮気して生でやりまくったあげくに、逆上した旦那を返り討ちにして殺してしまったのだとしても、

 それは、俺とは関係のないことである。

 人生の最初に組みこまれた酒巻多江に対する想いが、鴨門真伸という人間の一部となり、今なお呼吸し続けているとしても、それは外界とは隔離された、鴨門真伸の体内でみられる現象にすぎない。

 俺がいなくても、世界は回り続ける。
 俺とは無関係に、六十億の人間が動き続ける。
 酒巻多江だって、そんな六十億人のうちの一人。

 酒巻多江は、高校二年生の終わりに大阪の女子校に転校して、鴨門真伸の視界から消えた。その後、鴨門真伸のいない場所で成人して、鴨門真伸のいない場所で社会人となり、人と出会い、結婚して、浮気して、殺人事件に巻きこまれている。つまり、現在の酒巻多江が、どんなにダメな大人であったとしても、鴨門真伸が責任を感じる必要はない。鴨門真伸が義務感を覚える必要はない。何か感じるところがあるとしたら、それは鴨門真伸の思い上がりにすぎない。

 鴨門真伸は顔をしかめながら寝返りをうった。たまたま同じタイミングで、売春婦も寝返りをうち、――ふいに体を向け合うかたちになり、視線がからみ合ってしまっていた。冷めた空気が漂う。
 今はもう天女のように美しいとは思えない。顔の小さな胸の大きな若い女にすぎない。そろそろ帰ってほしそうな気配を察して、鴨門真伸は起き上がった。じゃっかんの後ろめたさとともに、そそくさと店を出た。

「出水さん!」

 とたんに飛んでくる声。息を呑んだ。その親不孝通りに響き渡った声には、聞き覚えがあった。まさか、まさか、と怯えながらふり向いて、――無視して逃げてしまうべきだったと後悔した。

 日影あき菜だ。

 なぜだか、百瀬興業の制服のままの日影あき菜。紺色のベスト、白いブラウス、紺色のスカート。

 偶然?
 違う。
 百瀬社長の差し金?
 違う。

 日影あき菜は、何らかの尋常ではない目的のために、鴨門真伸の後をつけてきたのだろうということは、わかるのだが、ここまでくると、本気で気味が悪い。

 鴨門真伸は日影あき菜から顔をそむけて、親不孝通りを関内方面へ向かった。いや、向かおうとした。向かえなかった。前方に、――

 酒巻多江がいた。

 デニムのキャップにロンTに黒のスキニーにサンダル。室内着のまま伊勢佐木町のスタバにたむろする主婦を連想させるが、スタイルが良いので、華がある。ちょっとしたモデルふう。

 酒巻多江に背を向けて、猛ダッシュで逃げ去る鴨門真伸が頭に浮かんだ。

 浮かんだだけだ。

 鴨門真伸は苦手な分野では戦わないことを信条としている。長年の方針は既に鴨門真伸の性格の一部となり、脚は微動だにしない。鴨門真伸は走るのが遅いし、走り方もかっこ悪い。

 代わりに鴨門真伸の口が動く。

「なぜここにいる? まずはそこから説明しろよ」

 舌戦であれば、たとえ相手が口の達者な女であったとしても、負ける気はしない。

「警察が探しているらしいじゃん。俺の後なんかつけまわしている時間があるなら、さっさと出頭しろよ。重要参考人なんだから」

「あいかわらず、冷たいのね」

 酒巻多江は静かに言った。その表情は、さみしそうで、鴨門真伸に呆れているようでもあって、鴨門真伸は、人生で一番大切なものを、力一杯地面に投げつけて、粉々にしてしまったように思った。

 ああ……、最悪。