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C規格の男 第2章 06

 鴨門真伸は日影あき菜をにらんだ。

「何よ。何なんですか?」

「お前、もう帰れ。話があるなら、明日聞く」

「どういうことですか? 伊藤さんは?」

「伊藤さんに対しては、俺も話したいことがある。でも、日影さんに対してはない。別に差別しているつもりはない。伊藤さんと俺とは古い知り合いだけど、日影さんと俺とは、昨日会ったばかりの仕事上のつきあい。話があれば明日会社で聞く。ただそれだけのことだ」

 日影あき菜は、あっさりと泣き始めた。眼鏡のレンズがみるみる曇っていく。

「……ひどすぎるぅ。うっ。……だって、あたし、出水さんのせいで、クビになるのに。ひっ。……あたし黒木課長に呼ばれて、言われたんや。……百瀬社長が、勝手に新しく経理を一人入れたって。百瀬興業の経理は、もともと二人でやっていたし、今の原田課長は、道下常務がわざわざ引き抜いてきたんだから、切れない。だから、悪いけど、あたしが辞めてくれって。……あたし、一ヶ月後には、職を失くして、寮も追い出されるんや。……大慌てで仕事を探してみたけど、このご時世、新しい就職先なんて早々みつからん。

 ――なんで、あたしなんや? どうして、あたしばっかりひどい目に遭うのや? あたしがブスやから? ブスやから、ダメなんか? でも、顔なんて親からもらったもんや。あたしにどうしろっていうんや。

 ……伊藤さんなんて、家に帰ったら旦那さんのおるババアやっていうのに、道下常務は、毎日毎日、フカヒレだフィレ肉だって、散々いいもの食わせておいて、なのに、あたしには、……ううっ。……あたしの給料なんて、いくらか知っておるか? 伊藤さんらが三回ランチに行ったらおしまいや。あたしは、あれっぽっちで一ヶ月間生活しておるんや。伊藤さんらが週に一回でも、あのランチをやめれば、あたしを百瀬興業に置いておくことができるんや。なのに、あたしはいらんから、いいもん食わせろって、みんな言うんや。ああっ。……

 ……出水さんだって、結局そうなんやろ? あたしなんかにごちそうする金はないけど、伊藤さんにだったら、いくら使っても惜しくないって言うんやろ? ――伊藤さんなんて、三十過ぎのババアなのに、あたしなんて、まだ十九なのに。何が違うんや? 顔か? どうせあたしは子供の頃からブスやった。親にも、せめて手に職をつけろと言われて、でも勉強はできんし、手先は不器用やし、運動もできんし、実家は山の中やし、金沢の繁華街に下りて行くだけでも車で一時間かかったし、バスも途中までしか来ておらんし、すぐ隣は富山との県境やし、すぐに大雪になるし、山ばっかりで隣の家なんて見えんし、小学校は分校やし、全校生徒が一番多い時で五人やし、そんな場所で、男の子と事故なんて起こして、どうやって、あたしに生きていけっていうんやろな。――男の子っていったって、彼氏とか友達とかいうのじゃないんや。ぜんぜん知らん子や。あたしはただ、家に帰るのにバスを待っておっただけなのに、なんか怖そうな男の子の集団が「レアや」とか「罰ゲームにちょうどいい」とか言ってあたしに寄ってきて、あたしを取り囲んで、改造バイクの後ろにあたしを乗せて、――で、あたしを乗せておった男の子が、勝手に転んで、勝手に一人で死んだだけなんに。――あたしは何もしておらん。「なんでこんな目に遭わねばならんのやろ」「なんの罰ゲームや」って、目をつむって固まっておっただけなのに。――なのに、あたしだけが、かすり傷で済んだからって、死んだ男の子の親は、あたしを責めるし、あたしが何か悪さをしたから男の子が転倒したんじゃないかとか、あたしが警察に疑われるし、あたしが殺したんだとかうわさされるし。――あたしは十六歳にして、実家を出されて横浜に来て、遠い親戚だとかいう、今まで会ったこともなかった人の家に、一人で預けられて、でもその家も、別に金持ちでも何でもないから、あたしはバイトして、いざという時の支出に備えてきたのや! そりゃあ、親はお金を送ってくれるけど、制服のスカートのお尻がすり切れてきたから、新しいのがほしいとかまでは気が回らなくて、まさか親戚に頼ることもできんし、そういうの、あたしは全部、自分でどうにかしてきたんや。誰の邪魔にもならなんように、追い出されんように、気を使って、一生懸命生きてきたんや。――なのに、やっと高校を卒業できる、やっと、高校生だから時給はマイナス百円とか、そういう足元を見た扱いから解放されると思ったら、不景気だかなんだか知らないけど、就職先が見つからなくて。――あたしだって パチンコ屋で働くことに抵抗はあった。広告代理店とか、マスコミとか、おしゃれな会社がよかった。でも、拾ってくれたのは百瀬興業しかなくて、親も心配していたけど、でも社宅もあるし、就職先があるだけラッキーかなって、あたしが親を説きふせて百瀬興業に就職したんや! なのに、入社してみたら、実はロイとかいう外国人が会社の株を百パーセント持っているんだとか、百瀬社長の指示に従ったらロイが怒るとか、わけのわからないことを言われて、あげくの果てに、新しく百瀬社長の知り合いが経理に入ってくるから、お前は辞めてくれと言われる。

 どう思うん? どうして出水さんは、うちの会社に入社してきたんや? 手に職があるなら、他の会社でも良かったんじゃないんか? わざわざ、業者の支払いも給料の支払いも全部百瀬社長がやるとか、いや百瀬社長の隙をついて銀行印を奪ってくれとか、わけのわからない戦いをしている会社を選んで入ってくること、ないんじゃないですか? おかげで職を失くすあたしのことを、少しぐらい考えてくれたって、いいんじゃないですか? 一万円や二万円をあたしのために払ったからって、出水さんの生活に何か支障が出ますか? それくらい償ってくれても、いいんじゃないですか?」

 老舗の料亭だった。高度成長期を連想させる、古いが風情のある四階建てビル。玄関も看板も磨き上げられていて、店主の人となりが漂ってくる。鴨門真伸の父が家族サービスに使うタイプの店でもあった。

「先週の木曜日、ここにお昼を食べにきたでしょう?」ねばついた目つきで日影あき菜は酒巻多江を見る。「四人で六万八千六百八十円」

「あほだな」鴨門真伸も溜息をついた。「昼間っから、何を食ったらそんな金額になるんだよ」

 他人の金、しかも立場上自分には逆らえない者の金を不必要に使うことによって、その者の恨みをかう。その恨みがいつか自分に返ってくることなど、ありえないと信じている。徹底的になめている。

 その思慮の浅さこそが道下海の要領の良さの秘訣なのだろうか。しかしやはり道下海は、ただのバカなのだろうか。誰か答えを教えてほしい。

「しかも、この店、夕方五時開店ですよ。昼はやっていないんです。なのに、どうして道下常務たちはここでランチできたんでしょうね。道下常務って、毎日常務室にこもって、こんな交渉ばっかりやっているんでしょうね」

 のれんをくぐって中に入ると、客の入りは半分といったところだった。店員から席の希望を訊かれたので、個室と答えた。通されたのは、二階の四人がけの掘りごたつの部屋。日影あき菜を一番奥の上座に座らせて、鴨門真伸は酒巻多江と向かい合って座った。日影あき菜は、メニューを一目見て、一番高い一万八千円の蟹ふぐコースを頼んだ。酒巻多江は一万円のふぐコース。鴨門真伸も酒巻多江と同じにした。

 緊張しているのか、警戒しているのか、めずらしく一滴も酒を飲む気になれなくて、お茶にした。「あたしも」酒巻多江も酒は断った。日影あき菜は一番高い吟醸を選んでデカンタで注文した。鴨門真伸はテーブルを真ん中で切り離して、日影あき菜を窓の向こうに放り出してやりたい衝動に駆られた。
 
 日影あき菜によると、酒巻多江は百瀬興業のどこかから、突然あらわれたとのことだった。日影あき菜は百瀬興業を去るまでの一ヶ月間は、鴨門真伸からとことん搾り取る気でいるのだが、しかし今夜に関しては、上機嫌の百瀬社長が鴨門真伸の肩をがっちりつかんでいたので、見逃すほかないと唇を噛みしめていた。

 が、そこで奇跡が起きた。どこからか酒巻多江が出てきて、日影あき菜の肩を親しげに抱いた。酒巻多江は、日影あき菜を大通りへいざない、タクシーを停めた。百瀬社長のベンツが立体駐車場から出てくるのを待って、タクシーに後をつけさせた。タクシー代も酒巻多江が払った。

 酒巻多江をいぶかしむ気持ちは、もちろん日影あき菜にもあった。百瀬興業にやってきた刑事たちの態度から、伊藤知輝殺しの嫌疑が、道下海と酒巻多江にかかっていることもじゅうぶん感じとっていた。しかし、色白で華奢でいい匂いのする酒巻多江に肩を抱かれて微笑まれると、なんだかリアリティがなかったし、ふぐのことを思い浮かべると、あまり深くは考えられなかった。とにかく鴨門真伸を捕まえて、面倒なことはすべて鴨門真伸に任せてしまえばいいのだと、日影あき菜は結論づけた。そのためにも、鴨門真伸を逃がすわけにはいかなかった。

 鴨門真伸が親不孝通りの店に入ってからは、日影あき菜は店の東側にあるコインランドリーから、酒巻多江は店の西側にある駐車場から、と二手に分かれて店の出入り口を見張った。

 鴨門真伸は、ほんの三十分ほどで出てきたらしい。

「中で何していたんですか。たったの三十分で、何ができるっていうんですか」と、本気でいぶかしむ日影あき菜の眉間の皺を見て、日影あき菜の男性経験が本格的にゼロであることを鴨門真伸は悟らざるをえなかったが、なんだか鴨門真伸の今後の人生には何一つ影響を及ぼすことのない、きわめて余計な情報だった。鴨門真伸は意識的に消去した。

 ふと、酒巻多江が、隣に座る日影あき菜に顔を向けて、いたずらな微笑みを投げかける。

「日影さんとあたしって、意外と似ていたんだね」

 ――どこが?

 酒巻多江と日影あき菜が似ている。

 ――って、どこが?

 鴨門真伸は無性に腹が立った。

 言われたほうの日影あき菜も憮然としている。

「あたしのこと、バカにしているんですか?」

 しかし、言ったほうは余裕の笑みだ。

「あたしも、高校時代は苦労したのよ。妙なうわさが立って、高校にいられなくなって、関西に引っ越しさせられちゃったの。上の兄貴が仕事の関係で大阪に住んでいた時期だったから、監視役としてちょうどいいやってことで、兄貴が住んでいた借り上げ社宅の上の階の部屋を借りて、一人で住んでいた。自分でお弁当を作って、それを持って学校に行って。夜もだいたいは一人で食べていた。だって、兄貴、帰ってくるの遅かったから」

「……そうなんですか」

 日影あき菜の猜疑心のかたまりのような三白眼は、まだ警戒を解いていないが、酒巻多江の境遇に関して、何かしら共感するところはあるらしい。さすがは酒巻多江。今までろくにしゃべったことのない、性格が悪くて、若いくせにはつらつさが全く感じられないうえに器量にも恵まれていない女のふところにだって、必要とあらば入りこむ。女としてのキャリアを感じた。

「で、妙なうわさって、どんなうわさ?」日影あき菜が、ふとわれに帰った感じで眼鏡を光らせる。

 酒巻多江の視線を感じだ。

 鴨門真伸にやましいことはない。しかし、鴨門真伸は顔を上げて、酒巻多江と視線を合わせることができなかった。