★ 鴨門くんのいない世界 ★

「あたし、あの男の遺伝子がほしいな」

 思い切って口にしてみたのは、不妊の原因が主人のほうにあることが判明した夜のことだった。主人は治療をいやがり、ふさぎこんでいた。旧家の跡取り息子のくせに、「僕は一生君と二人きりでいいんだ」なんてロマンチックなことを言って膝を抱えていた。

 あたしも主人のことは愛している。でもどうしても主人の子供が生みたいかというと、実はそうでもなかった。子供はほしい。主人と二人で育てたいとは思っている。でも、その子供の遺伝子の提供者は、別に主人でなくてもいい。――いや、むしろ、主人でないほうがいい。

 暇つぶしでサックスを磨いていた主人は、ふとあたしを見上げていぶかしんだ。

「二人で育てれば二人の子よ。――ただ、あたしは、あの男の遺伝子がほしいの」

  ***

 道下海は、通りを歩く男たちより頭半分飛び出た長身で、ほっそりしていたが、肩は筋肉で角ばり、日に焼けた腕も筋肉で流線を描いていた。コケティッシュな外国人モデルみたいに、Tシャツにデニムのベストを合わせ、脛までの長さの綿パンツを腰ではいていた。その脚は長く、主人のへその上までありそうだった。顔立ちは甘く、しかしどこかピリリと尖っていた。ただ見た目が良いだけの男ではないのだろうという印象は最初からあった。しゃべる時の身ぶり手ぶりの大きさが、道下海の自信のほどを物語っていた。

 一瞬、主人が襲われているように見えた。道下海に比べると、主人は小さく、ぽてっとしている。うさぎちゃんだ。ラテン系の狩猟民族の貴族に狙われて覚悟を決めるうさぎちゃんを、あたしは連想した。

 実際には、主人と道下海は、ただ立ち話をしていただけだった。道下海は、何年か前に、海外ファンドを何個も使った、なにやら複雑な資金調達方法を、主人の会社に売りこみにきた証券会社の社員で、でも主人の会社の人間は、誰もついていけないからと門前払いに近い断り方をしたとのことだった。

「東大卒なんだってさ」

 道下海に背を向けて、主人は言った。

「ええ?」

 あたしは思わずふり向いた。道下海の背中が遠くなっていく。

「あのルックスで? モデルみたいじゃない」

「しかも、MBA。英語ぺらぺら」

「ええ?」再び驚いた。「あのルックスで? モデルみたいじゃない」繰り返した。

「というか、本当に、女子大生に人気のナントカという雑誌で、モデルみたいなことをやっていた時期はあるらしい」

「証券会社の人でしょ?」

「たぶん学生時代の話だよ。――学生時代はモデル、就職は証券会社。今はもう独立して、フリーで荒稼ぎしているっぽい。要領が良いんだよ」

 ただ美しいだけじゃない。

 ただ頭が良いだけじゃない。

 美しく、頭が良くて、社会にきちんと順応して、金を稼ぎ、なおかつ、なめし皮のように強い、オスの野生をしのばせた肉体を持つ、たぐいまれな男、それが道下海だった。

「……ところで、あの、隣のおばさん、なんだと思う?」

 ここは半年ほど前に横浜みなとみらいでオープンしたショッピングモール。日曜なので、すごく混んでいる。道下海は一人ではない。パンチパーマのおばさんが、その隣を歩いている。背が低くて脚の短い典型的な日本人体型。その顔はのっぺりしていて、鼻の下が長く、口が小さく、平安貴族みたいに桃色の口紅を唇の先のほうにだけ塗っていた。目は青みがかった濃灰のアイラインにうもれていた。トラの顔が大きくプリントされた紫色の光るシャツを着ていた。

「母親だろ?」主人は軽く言う。

 ――まあ、そういうことなのだろう。たしかに、そういうことなのだろう。道下海の日に焼けた筋肉質な腕が、オバハンの肩を、そっと抱いている。まるで田舎から出てきた母親が、迷子になるのを防ぐように。

 しかしそれにしても、似ていないにもほどがある。しかし道下海は、大好きな母親に久しぶりに会えて嬉しいという顔をしている。
「……よくわからない。つまり、ハーフの子供は、かわいいってこと?」

 もういいじゃん、と主人が首を横にふる。しかし、あたしは深く沈みこんで考えた。つまり、道下海の母親が、日本に来ていた不良外国人と若い頃に過ちを犯して生まれたのが道下海、ただそれだけのことなのだろうけれど。

 ずるいよ。

 たったそれだけのことで、あんなきれいな子が手に入るんだから。

 あたしは東大在学中にJJの読者モデルをしていたハーフの男の子に、母親として愛されている、純日本人体型のぶさいくなオバハンについて考えた。ずっと、ずっと、頭を離れなかった。

  ***

「名案かもな」

 睡魔の深さで考えこんだ後で主人は言った。あたしはほっとした。主人には血のつながらない兄がいる。主人は一般家庭で生まれ育った人ではないので、何が何でも自分の血を分けた子がほしいなどという気持ちは薄い。むしろ必要なのは優秀な子。主人よりもあたしよりも優秀な子。

「俺もあの遺伝子はほしい。ただ、遺伝子だけでいい」

 主人とあたしは、見つめ合って、がっちりと手をにぎった。

 二人で育てれば、二人の子。ただ、遺伝子だけがほしい。

「問題は、どうやって奴の遺伝子を盗むかだ」
 
 二人でうんうん頭を抱えて考えた。

 蛇の道だな、と主人は言い、蛇の道かもね、とあたしも思った。しかし、優秀な遺伝子を残したいという女の本能の前では、蛇の道すら輝いて見えた。

 初めての日。

 道下海のセックスは、なんとなく予想していた通りのオーソドックスさで、気持ちの高ぶりはない。夫婦の寝室で、クローゼットの中に隠れている主人に見張られながらのセックスだけれど、背徳の美学とはかけ離れている。身ごもる。ただそれだけを目的として必死になっている自分が滑稽に思えてくる。

 途中から、自分を高ぶらせるために、B規格の男のことを考えていた。ひどい男だったけれど、セックスだけはすごかった。

 どうして、三人も必要なのだろう。

 A規格の男と子育てをするために、B規格の男のことを考えながら、好きでもなんでもないC規格の男と、やたらとオーソドックスなセックスをする。

 人としてのまっとうな愛情と、性欲と、優秀な遺伝子を残したいという本能。

 どれもこれもが必要で、どの男のことも切り捨てられない。

 どうしてこんなことになってしまったのだろう。酒巻多江だったあたしが、伊藤多江になって四年。現在三十三才。――やっぱり年のせいだろうか。ずっと昔のあたしは、こんな女じゃなかった。

 あの頃のあたしは、鴨門くんの恋人になり、いずれは結婚して、鴨門くんの子供を生むことまで考えていた。恋愛の先には結婚があり、その先には、海のそばの家で小さな子供たちと暮らす幸せな若夫婦のイメージがあった。鴨門くんは恋人であり、夫であり、子供の父親である。そのイメージにゆるぎはなかった。

 いまだに、あたしは夢を見るのだ。何度も何度も、鴨門くんの夢が繰り返される。大船駅から少し離れたコンビニの駐車場で、鴨門くんと話している夢。そのはすむかいの地下の居酒屋に、鴨門くんと二人で高校の制服のままドキドキしながら入って行く夢。鴨門くんがあたしと同じ予備校に入ってくれないと言って、あたしが泣いている夢。薄暗い中学校の校舎に一人残された鴨門くんを、あたしが探しに行く夢。鴨門くんと一緒に住んでいる夢。そこは神奈川県のどこかのはずなのに、ヤシの木が生えた小さな珊瑚礁の島で、カヌーで出社するスーツ姿の鴨門くんを、あたしは手をふって見送るのだ。――で、鴨門くんが見えなくなってから、ふと、――絶海の孤島に取り残された、あたしの孤独に気づいて、ぞっとする。強烈な寂しさにみまわれる。鴨門くんは二度と帰ってこない。それがただの取り越し苦労とは思えず、近未来の現実としか思えず、あたしは泣きながら目を覚ます。夢で良かったとほっとしながらも、なぜだかよくわからないまま、あたしは泣き続ける。

 鴨門くんは、本当はあたしを誰よりも愛しているくせに、決してあたしを受け入れないと決めた男の子だ。――まるで原体験の一部のように、あたしの中に住み続けていて、時々あたしを痛めつける男の子。何年経っても出て行ってくれない。いくつになったら出て行ってくれるのだろう。まるで子供の頃に住んでいた家の夢を見続けるように、あたしは老婆になっても、鴨門くんの夢を見続けるのだろうか。

 きっと、鴨門くんが悪いの。

 鴨門くんが、あたしを許さなかったから。

 ねえ、鴨門くん。

 運命の男の子と結ばれなかった女の子は、その先、どのように生きていくのが正しいと思いますか?

一度、鴨門くんに訊いてみたい。鴨門くんのいない世界で生きていくために、あたしが入りこんだ道を、鴨門くんは、どう思うのか。