C規格の男 第1章 01

「ところで、百瀬社長がどこに金を隠したか教えてくれないか」

 道下海は、役員御用達の高級机の天板に、長い脚を放り上げたまま言った。ジーンズである。量販店で売っているリーバイスやエドウィンじゃなくて、おそらくデザイナーズ・ブランドの高級ジーンズ。先の尖った革靴にもマッチしている。まだ新しく、靴裏まできれいだ。上はボーダーのシャツなのだけれど、やはりこれも高そう。胸元にはサングラス。ミントの香りがするガムを、くちゃくちゃと音を立てて噛んでいる。憎たらしいくらいサマになっているのは、外国人の血がいくらか混じっているからだろう。瞳は琥珀色で、日焼けした頬は少し赤い。顔立ちは端正。体つきは筋肉質。腹もへこんでいる。

 横浜市内に四店舗をかまえるパチンコホール運営会社、百瀬興業の常務取締役、道下海。強固な造りの黒革の椅子の背をのけぞらせて、これでもかとふんぞり返って出水一平を見下している。

 道下海のかたわらには人事の黒木課長。あきらかに嘘とわかる、見る者を身構えさせる笑顔を常に浮かべている男。もちろん全く信用できない。

 十一時を少し過ぎて、道下海が出社してくるなり、出水一平が招き入れられた常務室は広かった。足元には毛足の長い絨毯が敷いてあり、調度品にも金がかかっている。以前は会議室として使われていた部屋だ。教えてくれたのは、どうやら百瀬興業では人事を担当している、酒巻多江だった。

「この会社、会議室ないのよ。道下常務が占領しちゃったの」とのことだった。

 高校二年生の秋以来だから、酒巻多江とは十六年ぶりの再会になるのだけれど、酒巻多江は、あっさりしたものだった。出水一平のほうは、腹の底から驚き、激しく動揺していたのだけれど、そういう時に口を開くと、ろくなことにならないので黙っていた。会議室の代わりとして従業員が使っている、ロッカーで影になった薄暗いスペースで、雇用保険関係の書類の受け渡しや給与振込口座の確認などといった、転職にまつわる最初の事務手続きを、出水一平は酒巻多江と頭をつき合わせて黙々と行なった。

 ここ、百瀬興業の本社は、横浜駅の西口を出て少し歩き旧東海道を超えて、一本裏に入った古びた五階建てビルの四階にある。公表従業員数は百二十人だが、ほとんどが店舗のホールスタッフなので、本社勤務は百瀬社長と道下海を含めても十人前後。人事、経理、IT、総務などの機能がここにある。パチンコ屋の本社にしては地味というか、本社だからこそ地味というか、どうやら給料もたいしてもらっていないようで、紺色のベストとタイトスカートの制服に、ぽってりと丸い体をつめこんだ化粧っけのない女や、くたびれたスーツに形態安定シャツのおっさんたちが、机を寄せ合って、日々の業務にいそしんでいる。

 つまり道下海の異質さは、違和感を通り越して攻撃的なほどである。

 金の匂い。知性の匂い。放蕩の匂い。

 道下海は、昼間から風俗街をうろつく職業不詳の男のようであり、しかし実は、東大経済学部卒で国内大手証券会社出身のエリートだった。会社の金でMBAを取って、会社の金と名前で散々いいものを食って、人脈を作って、で、もう用なしとばかりに会社を捨てて独立した要領の良い男だ。

「質問の意図がわかりません」

「通帳も銀行印も手形帳も、前の経理課長と百瀬社長が結託して、隠してしまった。異常な状態だよ。百瀬社長にお願いしなければ、俺たちは一円だって外に支払えないんだから。常務取締役である、この俺が、会社のために立て替えたタクシー代さえ、支払ってもらえない。どうしても金が必要なとき、俺はどう対処していると思う? 店舗に出向いて、銀行に送金される前のレジの中から、金を徴収してくるんだよ。まるで泥棒の気分だ」

「俺が、通帳や銀行印のありかを知っている、という意味ですか?」

「知らないはずがないだろう? 百瀬社長じきじきの紹介で入社してきているんだから」

「知らないです」

「知らないです、で済むか? うちの手形ほしさに、バカづら下げてやってくる営業マンどもは後を絶たないんだ。そいつらに、どうやって対応していくつもりなんだ?」

 ていうか、それが、今日転職してきたばかりの社員に対して言うセリフか?

「そんな調子で、これから経理を任せていけるのか?」

 あきらかに理不尽な言い草なのだが、道下海は、ふんぞり帰って出水一平を恫喝している。

 二年半前、深刻な経営不振に陥った百瀬興業に、Slyvanと称する外国籍のベンチャー・キャピタルから、十億円もの金がつぎこまれた。以降、百瀬興業の事実上の所有者はSlyvanであり、創業者一族の二代目社長百瀬高基は、下手にSlyvanに逆らうと首をすげ替えられる。

 道下海は、そのSlyvanから派遣された見張り役。ろくに働かずに遊んでばかりなのだが、なぜだかSlyvanの信頼は厚い。

 つまり、百瀬興業は今や道下海の天下だった。百瀬社長の紹介で入社してきた出水一平を、道下海がいびり出したところで、誰も文句は言えない。百瀬社長ですら文句が言えない。

「知らないっつってるだろうが」

 しかし、出水一平は、ちょっとキレてみた。

 道下海の目に妖しい光が宿り、表情はロウのように固まった。

「――なんだよ、その口の訊き方」

 静かな、しかし強烈な怒りをたたえた声だった。いちおう言い直しておく。

「ご存知だとは思いますが、自分は、今日入社してきたばかりなので、今後のことについては、上司の指示に従っていくつもりです。現時点では会社の中の手続きのことなど、何もわかりません」

「……上司、ねえ」

 道下海は口の端をゆがめた。

 実は、その今日から出水一平の上司になる経理の原田課長は、紳士然とした五十代なのだが、無能である。

 百瀬社長の父親の代から経理を担当していた勤続三十年の男を、道下海が締め上げて追い出した。その代わりとして、優秀な人材をわざわざ引き抜いてきたとのふれこみで、大手商社経理部出身の原田課長が転職してきたのが半年ほど前のこと。

 しかし、これが、おそろしいほどに仕事ができない。今までどのような技術を弄して会社に寄生していたのだろうと、首をかしげてしまうほど、何もできない。しかも、できないことを誰かから指摘されるのがいやだから、なんだかんだと仕事を後回しにする理由を探し出してくる。結果、月次の経理処理、設備費や経費等の支払い業務、年度の決算、そして税務申告と、一連の経理業務のすべてが滞り、引き抜いてきた道下海自身が困っていることは、出水一平も百瀬社長から聞いている。

 つまり経理に関しては、道下海にも負い目がある。道下海は、ふっと無邪気な顔つきになって出水一平を見た。

「で、何さんだっけ? 俺、名前とかそういう細かい話は苦手だから、まだよくわかんないんだけど、要は、会計事務所で働いていたんだろ? さぞかし優秀なんだろうな。社長じきじきの紹介で入社してくるくらいなんだから」

 その道下海の媚びた表情は、たった今、「こいつが嫌いだ」と心の底から思ったばかりの出水一平から見ても魅力的で、そして出水一平は道下海が、さらに嫌いになった。道下海はこのように下の者を恫喝して、そして上の者に取り入って生きてきたのだろう。

「いいえ、優秀でも何でもないです。たんに、所長から見捨てられたというだけのことです。お前なんかが資格試験に合格するはずがないから、もうあきらめて、うちの事務所も辞めて、普通の会社に転職したほうがいいと、以前から所長には言われていました。要は、やっかい払いです。百瀬社長が、ちょうど経理の人員を探しているからって、押しこまれただけです。百瀬社長の紹介というほどの紹介じゃないです」と、出水一平は準備していた嘘をついた。

 道下海は虫を見る目つきになっていた。

「そうなの?」斜め後ろに控えている黒木課長に問う。

「そうらしいです」

「ほんとに、それだけ?」

「の、ようです」

 道下海は、虫相手に怒ったり媚びたりした、その自分の労力を後悔しているがごとくの無表情になって、出水一平を見下ろしている。

「履歴書」黒木課長のほうを、ちらりとも見ずに道下海が命令する。

「こちらでございます」黒木課長のほうは、道下海の顔色を常にうかがっている。

 道下海は役員専用机の天板から脚を下ろして、五日前、黒木課長と面接した時に提出した出水一平の履歴書をのぞきこむ。

「出水一平」あくまでも鷹揚に、道下海が出水一平を見る。なんだか面倒くさくなってきた出水一平は目をそらす。「三十四歳。――まあ、一般的には働き盛りだよな。――で、前職が、鴨門会計事務所の職員。どれくらいの大きさの事務所? ――まあ、いいや、それで、とりあえず、そこで五年間働いていて、――で、その前は、何をやっていたの? 最終学歴は、神奈川県立横浜H高校中退ってなっているけど、――横浜H高っていったら、百瀬興業の裏の丘を上がったところにある名門校のことだよな」道下海が黒木課長を見る。黒木課長は知らないらしく、静かな微笑をたたえたままだ。「――で、一年浪人して横浜H高に入って、で、中退。……その後、渡米。……目的は? 何してたの? ……まあ、書いてないってことは、ろくなもんじゃないってことだな。――で、二十一歳から二十二歳のあいだはメキシコで中古車販売業に従事。帰国するまでの一年間も空白になっているけど、要は、またろくに働いていなかったってことだよな。――で、帰国してから、鴨門会計事務所とかいう、どうせ超零細の、所長の会計士が一人でやっているような事務所に拾ってもらうまでの六年間は、何していたわけ?」

「フリーターです」

 道下海はじろりと黒木課長を見上げる。

「何の冗談だ?」

 黒木課長は動揺したそぶりを見せながらも、芯の入った声色で答える。

「新しい経理の人材については、百瀬社長の言う通りでいいと、道下常務から聞いていたものですから」

「それにしても限度があるだろ。こいつは、大バカ者か、百瀬社長のスパイかの、どっちかだぞ」

 いまさら遅いよ。

「申し訳ございません。わたしの思慮が足りませんでした」と、黒木課長は顔をゆがませるが、どう考えても、事前に出水一平の履歴書すらチェックしていなかった道下海のほうが悪いのだ。しかし黒木課長は何も言わない。言う必要もない。黒木課長に意思はない。道下海の言うことに、ただ従っていれば生き残っていけるのだから。

「……まあ、いい」道下海は再びふんぞり返って、机の上に脚を乗せた。その拍子に出水一平の履歴書が、はらりと宙を舞って毛足の長い絨毯に落ちた。「とにかく、だ。五年も鴨門とかいう会計士の下で働いていたんなら、税金関係はプロだろ? とにかく決算を締めてほしい。それができなければ解雇だよ。まだ試用期間中だから問題ないだろ?」ちらりと黒木課長を横目で見る。

「十四日以内なら即日でクビが切れます」

 黒木課長がしたり顔で答える。奴の目に出水一平は映っていない。

「OK。十四日だ。十四日以内に決算を締めて、税金の申告ができるところまで持っていけ。どうせ最終損失なのはわかっているけれど、だからって申告しないで済ますわけにもいかないんだろ? 税務署とか税理士とかがうるさいんだよ。四月決算なのに、いまだに法人税の申告書が書けないって」

 法人税の申告期限は通常は決算から二ヶ月以内。しかし既に九月に入っていた。

「しゃれになってねーんだよ。ばーか」――と道下海に言い放って、会社の玄関を出て行く自分の姿が頭の中に浮かんだ。浮かんだだけだ。現実の出水一平は軽く礼をして常務室を出て、自分の席に座って頭を抱えている。

 いやな予感にさいなまれている。

 道下海の不倫相手。――それって、もしかして、酒巻多江のことじゃないのか?